下記の日程で第11回日本独文学会関東支部研究発表会を開催いたします。
皆様のご参加を心よりお待ちしております。
日時:2020年12月13日(日)13:00-17:30
開催方法:Zoomによるリアルタイム配信
【注意!】
プログラムと発表要旨のダウンロード: 2020関東支部研究発表会pdf
プログラム
<日本独文学会関東支部> (支部長) 山本 潤
(支部選出理事・庶務幹事)前田 佳一(広報幹事)日名 淳裕
(会計幹事)桂 元嗣
発表要旨
発表1(文学)小野二葉
声の遠近――川上弘美『真鶴』の日独話法比較
文学作品の話法の翻訳に関する研究は、現在までのところ純粋に技法的な領域に限定されており、作品の語りの問題と有機的に関連づけられているとはいいがたい。翻訳においてはしばしば話法の変更が行われるが、このことはしかし、翻訳の巧拙という視点のみならず、語りの「声」の変更という視点からも考察されるべきである。
本研究では、異なる言語間の比較を可能にするために、話法を「語り」と「語られる物語世界」の間の距離を表すものとして捉え、川上弘美『真鶴』の日本語原典とドイツ語翻訳における語りの声を比較する。『真鶴』の物語世界は、一人称の語り手「わたし(ich)」によって語られるが、「わたし」の「声」はそれ自体で独立した語りの地位を占めているのではなく、他の登場人物の「声」と近づいたり遠ざかったりする、その関係を通じて立ちあがってくる。話法の区別が流動的な日本語テクストでは、したがって声の遠近も流動的になり、一方、話法の区別が比較的明確なドイツ語テクストでは、話法の訳し分けによって距離の変化のダイナミズムが生じることを、本研究は明らかにする。このことはしかし、異言語間における語りの(正確な)翻訳の不可能性を示唆するというよりむしろ、テクスト間の声がお互いに関連し、影響し合う異文化間対話、すなわち翻訳は、声の多重性という点で小説言語そのものと本質を同じくしていることを示唆しているのだろう。
発表2(文学)清水恒志
小説はどこまで美を表現しうるか
――E. T. A. ホフマン『騎士グルック』と『カロ風幻想絵画集』
『騎士グルック』は後期ロマン派の作家ホフマンが1809年に公表した小説であり、後の1814年に『カロ風幻想絵画集』第一巻に収録された。
狂気の音楽家と語り手との出会いを描くこの短編小説は、音楽や絵画などの芸術への関心や、大都市のレアリテートと幻想、あるいは狂気と精神医学というように多様な要素を含み、豊饒な読解の可能性を示している。しかし本作は『カロ風幻想絵画集』の他作品との文脈の中で論じられて初めてその全貌が明らかになろう。それは『騎士グルック』が『カロ風幻想絵画集』に組み込まれ他の作品との相互的な反省関係に置かれることで、小説による美の表現可能性の追求という作品に内在する試みがあらためて浮き彫りになっていると考えられるためである。
『カロ風幻想絵画集』に収録された他作品との関連という視点では、すでにLubkoll(1995)が音楽小説の観点から『クライスレリアーナ』と、またNeumann(1995)が知覚論やメディア論の観点から『ドン・ジョバンニ』やジャン・パウルによる序文などと合わせて本作を論じている。本発表ではこれらの先行研究を踏まえた上で、『騎士グルック』が音楽と絵画、そして文学を合わせ、さらには五感をも叙述することを目指しながら、同時に『カロ風幻想絵画集』一巻全体において「空白の楽譜」という想像力の表現の限界を示すモティーフを繰り返すことで、自己批評性をも持つ総体的な小説の試みであることを示したい。
発表3(文学)相馬尚之
戦間期ドイツにおける進化論の射程
――リ・トッコ『オートマタ時代』(1930)における一元論的世界観の表出
本発表は、作家・化学技術者リ・トッコ(Ri Tokko, ルートヴィッヒ・デクスハイマー Ludwig Dexheimer 1891-1966)の未来小説『オートマタ時代――ある予測的小説』(Das Automatenzetialter: ein prognostischer Roman, 1930)における機械表象から、生物学者エルンスト・ヘッケルの一元論的世界観の広がりを踏まえつつ、当時の生物学の普遍化の試みについて検討する。
戦間期ドイツでは多くの未来/技術/ユートピア小説が著されたが、デクスハイマーの小説は一貫した筋も産業社会への諷刺もなく、延々と楽観的未来予測と技術史の講釈が続くため、冗長で低級な作品とされた。
本発表では第一に、『オートマタ時代』における機械の発展史が、進化論の概念と用語に依拠していることを確認し、続けて、作中の人造人間「ホマート」の機構に対する生理学者リヒャルト・ゼーモンの有機記憶論の影響を示す。デクスハイマーは、進化論の濫用に対する文芸的諷刺ではなく、将来の「科学的」予測のために機械に生物学を援用しており、機械と生物ひいては無機物と有機物の境界を越えるヘッケル的な「一元論的世界観」に傾倒している。
デクスハイマーは化学者ヴィルヘルム・オストヴァルトと社会学者ルドルフ・ゴールトシャイトからの影響を認めているが、彼らは「ドイツ一元論者同盟」の枢要な会員であり、「一元論的世界観」は厳密科学の領域を超え当時の人々を魅了していた。『オートマタ時代』は文学的には駄作であるとしても、客観性を謳う生物学と文学的想像力の奇妙な遭遇例として、普遍的法則を追求する科学的世界観の傲慢と可能性を示している。
発表4(文学)日名 淳裕
イルゼ・アイヒンガー『贈られた助言』における「錆」の主題
その散文作品が広く知られているイルゼ・アイヒンガー(Ilse Aichinger 1921-2016)は,自らの詩作品にたいする深い関心について述べてきた。主として1950年代に様々な雑誌に発表された散文詩は2001年にSimone Fässlerによって『クルツシュルッセ. ウィーン(Kurzschlüsse. Wien)』として一冊にまとめられた。一方1950年代後半以降に長い時間をかけて発表された詩をまとめたものが唯一の詩集とされる『贈られた助言(Verschenkter Rat)』(1978)である。
アイヒンガーの詩作品は散文作品に比べると研究対象として論じられることが少ないままである。概観すると,散文詩に表現されたウィーンの地誌を読み解くもの,夫ギュンター・アイヒとの関連から創作過程を分析するもの,戦時下の体験とその記憶を詩から読み解くもの,アイヒンガーが好む言葉を手がかりに詩を分析するもの,詩作品を生起させている言語の構造に着目しアイヒンガーの詩全体をテクスト生成的に論じたものがある。本発表は『贈られた助言』に収録された複数の詩の中で用いられている「錆びるrosten」という動詞に注目する。この語が詩作品の結束構造をどのように担っているのかを音韻,形象の両面から考察する。
発表5(文学)別府陽子
共苦の人・ゲルダ・ブッデンブローク
――『ビルゼと私』をもとにして
トーマス・マン作『ブッデンブローク家の人々』の3代目トーマスの妻ゲルダは、美しく、ヴァイオリンを弾く芸術家気質の女性である。先行研究では、ゲルダは音楽で一族を没落に導く役割をもつといわれ、目元の翳や冷たいという叙述から、ゲルダは愛する能力がなく、自己の意志と幸福を優先すると論じられている。しかしこの見方からは、第10部で世間の人々がトーマスとゲルダの夫婦を、礼儀正しく互いを思いやり、かばい合う関係にあると感じることを説明できない。
マンはエッセイ『ビルゼと私』で、認識する芸術家に人間としての一面があることを記している。ゲルダは、芸術家としては、夫や義弟を観察して市民でないというが、人間としては、息子を思いやり、才能を理解する母であり、家業に必要な社交を為し、夫をいたわり、共に読書をする妻である。夫との「音楽的価値」をめぐる唯一の口論でも、ゲルダは夫の芸術的感性を認めたうえで、音楽的感性のみ劣るという。
またゲルダは、トーニの「私を嫌っていたわよね」に言い返さず、姪の婿の「ヴァイオリンのご機嫌」を伺う陳腐な挨拶に何も言わず、常に他者を非難しない。
夫が路上に倒れたとき、ゲルダが身を震わせてトーニにいう言葉、「……ひどいわ、侮辱だわ…」は、夫の努力と苦しみを認識して我が事として共に苦しむゲルダの思いやりと同情(共苦)の言葉である。
発表6(文学)山﨑裕太
ニクラス・ルーマンの索引カード箱とコンピューター
本発表は、索引カード箱(Zettelkasten)がコンピューターの前身であるという仮説を立て、これをニクラス・ルーマンの思想から検証することを目的とする。
私の主張するテーゼは、ルーマンのシステム論と索引カード箱に、バイナリーコードやファイル管理機能といったコンピューターシステム的な考え方が認められるということである。索引カード箱とコンピューターのファイル管理機能との類似はすでにGfrereisとStrittmatterらによって示唆されている。ルーマンはおよそ9万枚もの索引カードを所有し、それらは現在ビーレフェルト大学Niklas Luhmann-Archivにおいてデジタル化が進められている。その一部はインターネット上で閲覧可能である。同プロジェクトにおいて索引カード箱の詳細と、索引カード箱に対するルーマンの考えが包括的にまとめられている。しかしながら、ルーマンのシステム論に含まれる、オートポイエーシスといったコンピューターに関連する考えについては言及されていない。これを、ヴィレム・フルッサーやフリードリヒ・キットラーなどのコンピューター論と比較して論じたい。