第9回日本独文学会関東支部研究発表会のご案内

下記の日程で第9回日本独文学会関東支部研究発表会を開催いたします。
皆様のご参加を心よりお待ちしております。

日時:2018年11月24日(土)12:30-17:35(12:00開場)

場所:お茶の水女子大学本館125教室

プログラムと発表要旨のダウンロード: 2018関東支部研究発表会.pdf

 

プログラム

12:30〜12:35 開会の挨拶:支部長:境 一三

<第一部 文学> 司会:須藤 勲 松鵜 功記

12:35〜13:15 五十嵐 遥也
認識主体と万物流転の世界-マッハの認識論によるムージル『愛の完成』読解の試み

13:15〜13:55 石橋 奈智
「白昼夢」の克服-ホーフマンスタール『帰国者の手紙』における複数の空間について

13:55〜14:35 栗田 くり菜
ステレオタイプを笑う-ヤーデ・カラの『セラーム・ベルリン』より

14:35〜15:15 森下 勇矢
グリンメルスハウゼンの愚者概念-ジンプリチシムス作品群の宗教要素と愚の連関

15:15〜15:30 休憩

<第二部 言語学・文化・社会> 司会:浅井 英樹 渡邊 徳明

15:30〜16:10 白井 智美
日独空間表現の分析における「話者の(非)客体化」視点の説明能力について

16:10〜16:50 林 敬太
ユネスコ無形文化遺産と謝肉祭

16:50〜17:30 山本 菜月
親になりたい者は誰か:出生意欲と家族像の関連
17:30〜17:40 幹事会からの報告

17:40 閉会の挨拶

18:00〜 懇親会

開場中、上記のプログラムに加えて、書店・出版社等による書籍展示が行われます。

(ご連絡)
1.会場予約の関係上、すでに懇親会へのご出席をお決めの方は、eingang@jgg-kantou.orgまでメールをいただければ幸甚です。
2.当日、新規入会申し込みおよび会費(年会費500円)の納入ができます。

(会場のご案内)

お茶の水女子大学 本館125教室
※本館は正門から入って正面すぐの建物です。
※正門から入る際に守衛に呼び止められた場合は「日本独文学会関東支部研究発表会」とお伝えください。
※お茶の水女子大学はJR御茶ノ水駅の近所にはありません。

(交通アクセス)

茗荷谷駅(東京メトロ丸ノ内線)徒歩7分
※大学HPには護国寺駅(東京メトロ有楽町線)からも徒歩圏内であるとの記載がありますが、当日は護国寺駅に近い「南門」が閉じられているため、茗荷谷駅からのご来場をお勧めします。

住所
〒112-8610 東京都文京区大塚2-1-1

お茶の水女子大学交通案内URL
http://www.ocha.ac.jp/access/index.html

<日本独文学会関東支部>
(支部長)境 一三 (支部選出理事)浅井 英樹
(会計幹事)渡邊 徳明 (広報幹事)松鵜 功記 (庶務幹事)須藤 勲、前田 佳一

発表要旨

発表1(文学)五十嵐 遥也
認識主体と万物流転の世界―マッハの認識論によるムージル『愛の完成』読解の試み

本発表はローベルト・ムージル(1890-1942)の『愛の完成』(1911)における脱自的描写について、彼が博士論文(1908)で論じたエルンスト・マッハ(1838-1916)の知覚理論からの影響のもとにあると仮定し論じる。
マッハはあらゆる知覚は関数的依属関係の節減的(ökonomisch)な把握であり、「自我」や「物体」という概念でさえ、色、音、熱、圧、空間、時間などの基礎的な要素を任意にまとめた「仮想的な単位」であるとし、科学に留まらず当時の文学、芸術、政治に大きな影響を及ぼした。しかしそれと同時にその理論の矛盾も当初から少なからず言われており、そのうち最も重大なものとして、自我はないにしてもそれ以前のいわば最小限の認識する主体のようなものは想定せざるをえないことが、ヘーニヒスヴァルトによる先駆的なマッハ批判(1903)によって既に指摘されている。つまり、マッハの認識論は「感覚要素一元論」と呼ばれるにも関わらず、実際は「万物が流転する」世界とそれを認識し整序する最小限の主体の二元論にならざるを得ないのである。それゆえ、さらに言うならば、ここでは他の認識主体は「どうしても念頭に迫ってくる根強いアナロジー」としてしか存在の根拠を持たないのだ。
マッハからムージルへの影響を論じる際、先行研究ではこうした認識主体の問題について単なる矛盾として紹介するにとどまっていたが、『愛の完成』がまさしくこの矛盾を前提に全体の叙述がなされていることを明らかにするのが本発表の目的である。

 

発表2(文学)石橋 奈智
「白昼夢」の克服 ―ホーフマンスタール『帰国者の手紙』における複数の空間について

ホーフマンスタール『帰国者の手紙』は、第一から第五の手紙で構成されているが、このうち第一から第三の手紙は1907年に発表され、第四・第五の手紙は1908年に『見ることの体験』という題で「『帰国者の手紙』から」という脚注とともに発表された。最も有名な、帰国者がゴッホの絵画を見る体験をするのは第四の手紙であること、また、ホーフマンスタールの生前には五通の手紙が同時に発表されることはなかったことなどから、近年の研究では第四・第五の手紙、とりわけゴッホ体験が重点的に扱われ、絵画とテクストの相互作用についての議論が中心的となっている。
本発表では、ゴッホ体験が頂点とみなされがちなこの作品を、第三から第五の手紙にわたって現れる種々の空間に着目することによって、この作品に新たなイメージ論的観点を見出すことを目標とする。以下を、全体的あるいは部分的に題材とする予定である。1.(第三の手紙)帰国者が幼少時に父親からデューラーの版画を見せられた塔の部屋。2.(第四の手紙)帰国者が投獄されていた牢とそこから見えた水牛の死の光景。3.(第四の手紙)帰国者がゴッホの絵画を目撃する部屋。4.(第五の手紙)ブエノスアイレスの港で、船上の帰国者のもとに現れた「深淵」。これらの空間を、第一の手紙に登場する「白昼夢」 ―視覚において知覚した像と脳内において想起した像とが同時に現れる分裂状態― を手がかりに、その克服として考察することを試みる。

 

発表3(文学)栗田 くり菜
ステレオタイプを笑う-ヤーデ・カラの『セラーム・ベルリン』より

ドイツのトルコ系女性作家であるヤーデ・カラ(Yadé Kara, 1965-)が2003年に発表した『セラーム・ベルリン(Selam Berlin)』は、主人公のハサン・カザーンが壁崩壊後のベルリンを舞台に、多くのトルコや東ドイツの出身者と関わりを持ちながら、仕事や恋など様々な経験をする小説である。従来この作品を対象にした研究は、ベルリンの壁崩壊をテーマとするものと、両親がトルコ出身でありながらドイツで育ったハサンが抱くアイデンティティのゆれに注目するものの二つの方向から行われてきたが、トルコや東ドイツの出身者に対する偏見から生じる軋轢が、滑稽に描かれているという点に着目した研究は無かった。本発表ではまずハサンが偏見と対峙する滑稽な場面を取り上げ、同系統の概念である笑いやフモールと比較しながら、笑いのような反応を人為的に惹起する形式である滑稽さを検討する。移民背景を持つ作家自らが、偏見から生じる軋轢を滑稽に描くこと自体が、従来の単一文化的な見方の批判と捉えることができるのではないか。また本作品では、ハサンに内在する東ドイツ出身者に対する差別的な視線も一見滑稽に描かれるが、果たしてこれは滑稽といえるのだろうか。本発表では作品分析を通じ、自分が抱く先入観と対峙し、己の内面に批判的な視線を向けることで、自己と異質なものの境界線があいまいになり、文化の規範や思考様式を自明視することのあやうさについて論じる。このあやうさは、つまるところ越境文化をめぐる問題であるといえるのではないだろうか。

 

発表4(文学)森下 勇矢
グリンメルスハウゼンの愚者概念-ジンプリチシムス作品群の宗教要素と愚の連関

セバスティアン・ブラントの『阿呆船(1494)』は「愚者文学」の嚆矢として広範な読者に親しまれ、この作品ジャンルの核となる愚者は舞台・諷刺作品にその活躍の場を見出す。このモティーフは『阿呆物語Der Abentheuerliche Simplicissimus Teutsch(1668)』の悪漢ジンプリチウスとして結実し、「この世の堕落を眼前に晒す(Welzig, 1963)」ための鏡として機能し、人々の倫理的堕落を辛辣に諷刺する。グリンメルスハウゼン研究の中で頻繁に扱われてきたこの論はしかし、「ポリフォニー(Verweyen, 1990)」と称される作品の多層性・複合性ゆえに、愚者概念の表面的な部分に関するテーゼの域を出ない。本発表は、諷刺要素に覆われ曖昧模糊とした愚者概念の本質を突き止め、包括的な調査を通して一面的な作品理解からの脱出を試みるものである。
グリンメルスハウゼンは『阿呆物語』の発表後、周辺作品の執筆を通して「ジンプリチシムス作品群Der Simplicianische Zyklus」を完成させており、作品間のつながりを考慮せずには個々の作品の十全な理解は不可能であると述べる。そのため周辺作品相互の結びつきを考慮に入れたアプローチが必要となるが、今回の分析では主に『放浪の女ペテン師クラーシェ(1669)』ならびに『風変わりなシュプリングインスフェルト(1670)』を取り上げる。両作品の主人公とジンプリチウスが有する愚者性の比較対照を通して、著者が抱く愚者像の明瞭化を図る。考察にあたって、回心を経たジンプリチウスが強い宗教性を湛えた筆致で描かれる一方で、クラーシェとシュプリングインスフェルトが一貫して頑なな罪人として描写される構図に着目し、背徳者としての愚の性質が敬虔さの有無によって変容する点に比重をおく。

 

発表5(言語学)白井 智美
日独空間表現の分析における「話者の(非)客体化」視点の説明能力について

現代言語学で空間表現を分析する際に依拠する言語理論の多くは、「客体化された世界」に当該の空間関係が言語的に再構築されることを前提しているように思われる。本報告ではまず、この言語的に再構築される世界の客体性は、空間関係を言語化ないしは認識する主体が、その際に自分自身を客体化するか否かと相関関係にあると考えられることを指摘する。ここで問題にする、話す主体の客体化―非客体化と、それぞれの場合にコンセプト上可能になる「言語的に再構築される世界」については、次のR. Langacker (1990)1の例を想定すると分かりやすい。
1. Anna sitzt mir am Tisch gegenüber.
2. Anna sitzt am Tisch gegenüber.
この二つの文が同じ空間関係を表している場合を考える。そうすると、例えば一人称代名詞の使用を手掛かりに、話す主体が客体化されていると考えてよさそうな(1)では当該の空間関係は、話者自身から客体化した世界に再構築されており、話す主体が客体化されていると考える積極的な言語的証拠の見られない(2)では、同じ空間関係を言語的に再構築する世界として、必ずしも話者自身から客体化した世界を前提する必要はなさそうだという相関関係をみることができる。今仮に、話者の自分自身の客体化の有無に応じて、話者自身から客体化する世界(1)としない世界(2)という二つの空間コンセプトを想定することができるとすると、この前提されている空間の差を考慮すると、空間移動の表現はどのように分析できるだろうか。日本語の「いく/くる」とドイツ語のgehen/kommenが同じ空間関係を指しつつも、Ich komme gleich!/「今行くよ。」のようにその適用が異なる場合の検討を通して、この「話者自身の(非)客体化」という視点が空間表現の記述・説明にどの程度有効か確認したい。
1R. Langacker (1990) Subjectification. In: Cognitive Linguistics I. 5-38. 例文は英語より翻訳。

 

発表6(文化)林 敬太
ユネスコ無形文化遺産と謝肉祭

本研究では,ドイツ語圏で開催されている謝肉祭について,国連機関であるユネスコが制定した無形文化遺産条約への登録活動が行われている現状を分析し,この現象がどのような意味を持っているのかを探る。
これまでドイツ語圏の謝肉祭について,中世に開催されたものについては演劇の一種として,或いは都市生活文化史の対象としてドイツ語圏でも日本でも研究が行われてきた。また,19世紀から20世紀の変遷を振り返る社会学的な研究も行われている。しかしながら,今現在の状況を分析した先行研究はいまだ希少である。
他方,ユネスコでは主に非ヨーロッパ圏の文化を保護するための議論が行われ,21世紀に入ってから無形文化遺産条約として結実した。その議論は実に30年以上に及び,「無形文化」という存在がどのようなものかという定義付けがユネスコによって行われた。
ドイツ語圏の謝肉祭は開催される地域やそれを越え広く国家や時代の影響を受け,変化しながらも一定の形を保ってきた。無形文化遺産への登録に向けた活動は近年の変化の中でも最も大きなものだと思われる。それはただ謝肉祭の側が一方的にユネスコでなされた議論の影響を受けるだけではなく,相互的なものであり,条約締結国全てが注目すべきものである。例えば,ドイツは既に謝肉祭や他の文化的活動の主体となる「市民団体」を無形文化遺産に登録している。このような市民団体の活動がドイツ語圏の無形文化にとって大きな役割を果たしていることがユネスコによって可視化されたと言える。ドイツ語圏の文化を知るために市民団体の実情を知ることが今後はより重要であると言えるだろう。

 

発表7(社会)山本 菜月
親になりたいものは誰か:ドイツにおける出生意欲と家族像の関連

近年のドイツの出生率回復には、多産とされる移民の増加や家族政策の方針転換だけでなく、ドイツにおける家族の意味が変化したことが、大きな役割を果たしていると考えられる。国内外での先行研究においては、出生力に影響するものとして年齢や、収入、教育レベルなどの社会経済的要因および近代以降の価値観の変容などが挙げられてきた。しかし、個人の意識と出生力、特に子どもを持つことの実現についてはどのような関係を持っているのかについてはまだ議論が始まったばかりである(Fasang, Huinink, Pollmann-Schult 2016)。そこで本発表では、2012年に実施された「ドイツの家族像」調査個票を用いて、20~30代の男女(N=5000)における家族像が出生意欲にどのように影響しているかを、統計的手法を基に検討する。
予備的な分析では、伝統的価値観を持つ層は出生意欲が高く、子どもを持つことへの経済的負担感を持つ層は出生意欲が低くなることが明らかになった。また、出生意欲が高いとされる移民背景を持つ者については、男女で結果が異なっていた。報告時は、上記以外にも複数の変数を用いて分析し、ドイツにおける若い世代の出生意欲の規定要因を明らかにする。