第12回日本独文学会関東支部研究発表会のご案内

下記の日程で第12回日本独文学会関東支部研究発表会を開催いたします。
皆様のご参加を心よりお待ちしております。

日時:2021年12月12日(日)13:00-16:10

開催方法:Zoomによるリアルタイム配信

参加方法:関東支部会員の方には会員向けのメーリングリストにて発表会前日までにZoomのミーティングURLを通知いたします。会員でない方は、下記リンクのフォームよりお申し込みください。

*ご不明な点はeingang@jgg-kantou.org までお寄せください

<日本独文学会関東支部>

(支部長) 境一三(支部選出理事)浅井英樹(庶務幹事)江口大輔 山本潤

(広報幹事)日名 淳裕(会計幹事)桂 元嗣

 

プログラム

12:55  Zoomミーティング開場

13:00  幹事・支部長挨拶

13:10〜13:45  伊藤港(学習院大学):Absentiv(不在構文)の用法について

13:50〜14:25  森下勇矢(東京大学):道化服と悪魔 ―『阿呆物語』にみる愚者から悪漢への変貌

14:25〜14:50    休憩

14:50〜15:25    相馬尚之(東京大学):心身一元論から「原-自我」へ ―1920年代におけるデーブリーンの自然哲学

15:30〜16:05    前田佳一(お茶の水女子大学):インゲボルク・バッハマンの短編集『三十歳』における固有名の機能

16:10  閉会

発表要旨

発表1(語学)伊藤港

Absentiv(不在構文)の用法について

本発表では、Absentiv(不在構文)が背景描写や様子を表現するフランス語の半過去形と似ている点を明らかにし、ドイツ語にはないとされている新たな時制である未完了相を形成している可能性を検証する。Absentiv (不在構文) とは、以下の例の通りである。

(例) Er war einkaufen. 彼は買い物に行っていた。

ドイツ語のAbsentiv (不在構文) とは、 (sein + 不定詞) の形で作られるものであり、de Groot (2000) で初めて説明がなされている。この構文は、主語の不在を意味するものあり、日本語で「○○をしに行っている/ いた」と訳すことができ、進行形的な表現だと考えられる。だが、日本にあるほとんどの文法書や教科書に記載されていないのである。また、先行研究ではVendler (1967) の動詞分類に従って、Absentivを構成する動詞の種類分けのみが行われており、コンテクスト、アスペクト、分離動詞、動詞の目的語の冠詞などについて十分に考察されていない。しかし、マンハイムのドイツ語研究 (Institut für Deutsche Sprache, Mannheim; IDS) のCOSMASⅡ (検索システム) でコーパスを検索し分析した結果、先行研究に挙げられていなかった Absentiv に使われる動詞や接続法2式の形もいくつか発見することができた。またコンテクストに注目すると、文中に現れるAbsentiv は「主語が話の中心地にいない」というVogel (2007) などで述べられていた元々の不在の意味だけではなく、補足的情報、背景部の記述をする機能も持ち合わせていると考えられる例文がいくつもあった。そのため、Absentiv がドイツ語の今までになかった時制である未完了を表現する構文である可能性があり、それがフランス語の半過去形の表現に類似している。フランス語の半過去形は、過去のある時点での行為、状態をまだ完了していない進行中のものとして表現し、継続、習慣、反復、描写などの多彩な用法を持っているものである。

 

発表2(文学)森下勇矢

道化服と悪魔

『阿呆物語』にみる愚者から悪漢への変貌

ドイツ近世の諷刺作品や謝肉祭劇で多く見られた道化の形象と結びつくのは、彼らを指す語「Narr」が示す通り、人間の「愚」の概念である。この「愚者概念Narrenidee」はセバスティアン・ブラント(Sebastian Brant, 1457-1521)の『阿呆船』(Das Narrenschiff, 1494)に代表される「愚者文学」の根幹をなすものであった。そして、ブラントに続くトーマス・ムルナー(Thomas Murner, 1475-1537)やデジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus, 1466-1536)を始めとする多くの愚者文学作家に連なるのが、バロック期の諷刺作家ハンス・ヤーコプ・クリストッフェル・フォン・グリンメルスハウゼン(Hans Jakob Christoffel von Grimmelshausen, 1622-1676)である。本研究では、グリンメルスハウゼンの代表作『阿呆物語』(Der Abentheuerliche Simplicissimus Teutsch, 1668)を取り上げ、この作品が内包する愚者概念と主人公ジンプリチウスが持つ道化性を明らかにすることを試みる。

ジーン・シリンガーはジンプリチウスが持つ純真さの源である「単純さsimplicitas」と対をなす愚かさを「ストゥルティティアstultitia」とした上で、これら二つの愚がジンプリチウスの中で互いにぶつかりあうと述べる。(Schillinger, 2007) 否定的愚である「stultitia」は、すでに旧約聖書の中で「賢sapiens」と対置されて扱われた概念であるが、これは罪に陥る人間の根本要因となるものであり、ジンプリチウスを「徐々に悪徳へと導いていく」(Moll, 2015)。本研究ではシリンガーの論じる愚の対立構造をふまえつつ、「simplicitas」によって無垢な状態にあった少年ジンプリチウスが職業道化となったのち、「悪魔の模倣imitatio diaboli」を行いつつ「stultitia」にのまれていくプロセスに分析の焦点を置く。ジンプリチウスの悪漢への変容が、彼の道化性と愚の相互作用によって引き起こされるというテーゼを立て、中世以降の神学的議論に鑑みながらこの検証を行う。

 

発表3(文学)相馬尚之

心身一元論から「原-自我」へ

――1920年代におけるデーブリーンの自然哲学

本発表は、ドイツ人作家アルフレート・デーブリーン(Alfred Döblin 1878-1957)の1920年代の自然哲学について、当時の一元論思想との関係から論じる。デーブリーンは文学的評価が先行しているが、近年では彼の精神科医としての経歴や自然哲学、その小説との関係も注目されている。

本発表では、まずデーブリーンのエッセー「自然とその魂」(„Die Natur und ihre Seelen“ 1922)を取り上げ、その万物の魂(Allbeseeltheit)の構想について同時代の生物学者エルンスト・ヘッケル(Ernst Haeckel 1834-1919)の一元論的世界観との相似から論じる。だがこれは自然科学からの逸脱に留まらない。科学との調停を目指す一元論思想は19世紀後半に「心的素材理論(Mind-Stuff Theory)」を発展させており、微細な原子にも魂が宿るとする主張は、アメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズ(William James 1842-1910)が論じたように、進化論の時代における一元論の不可避的要請であった。

しかしデーブリーンは、『自然を超える自我』(Das Ich über der Natur, 1927)において自我の分類のみならず「原-自我(Ur-Ich)」の導入により、世界内の個体の再評価を試みる。精神物理学の影響を残すデーブリーンの折衷的自然哲学からは、心身一元論の葛藤――精神の物質的還元と物質自体の精神化――が明らかになるのだ。

 

発表4(文学)前田佳一

インゲボルク・バッハマンの短編集『三十歳』における固有名の機能

1960年に「名前との付き合い」と題した詩学講義を行ったことからわかるようにインゲボルク・バッハマンは文学作品における固有名というテーマに強い関心を有していた。発表者は前田(2019)においてDebus(2012)による文学的固有名の機能類型を応用してバッハマン作品における地名の機能を分析し、バッハマンが固有名の「アウラ」による錯覚形成機能を批判的に捉え、それを無効化・脱魔術化しようとしていたことを明らかにした。

本発表ではそれを引き継ぎ、短編集『三十歳』(1961)収録の諸作品における人物名の機能を考察する。上記詩学講義では文学史上の有名作品における人名が有していたアウラの「壊死」について言及されるが、それに呼応するかのように同短編集における登場人物の名称は多くの場合(「三十歳」のモル、エレーナ、レーニ、ヘレーナ、「すべて」のフィップス、「ウンディーネが行く」のハンス等)固有性を喪失した陳腐で類型的な名として登場する一方で、物語中重要な役割を果たす人物たち(「三十歳」の名前のない女と運転手、「人殺しと狂人たちのあいだで」における見知らぬ男等)には名前がつけられることはなく、匿名のまま作中で言及される。こうした人名の無意味化と匿名化は既にみた地名の脱魔術化と符合しているが、同作品集はそれにとどまらず、語り手の「私(Ich)」という名をも無効化する契機を含んでおり(「オーストリアの町での子ども時代」「三十歳」等)、あらゆる名称のアウラを無効化せんとするバッハマンの志向がここに見て取れることを本発表は最終的に指摘する。